『イマジナリ・フレンド』レビュー きらめくさみしさの物語

◆はじめに

 

どうもこんばんは。蜂八憲(はちや・けん)と申します。

ミタヒツヒトと同じく、「超水道」でシナリオを担当しています。

 

さてさて、まずは改めてお知らせを。

7/22に、超水道・ミタヒツヒトの書きおろし小説『イマジナリ・フレンド』がハヤカワ文庫JAさまから発売されました。

そして今日(7/31)、Kindle版もめでたく配信になりましたよ!

改めておめでとうミタさん! めでたいね!

 

 

 

と、ここで、イマジナリフレンドならぬイマジナリリーダーの声が聞こえてきます。

 

「『イマジナリ・フレンド』書いたのお前じゃねえじゃん! なんで出てきたんだよ!」

 

ごもっともです。こもっともなんですけど、でもね。

 

『イマジナリ・フレンド』を自分が書いていないからこそ──

もっと言うなら「超水道」として微塵も関わっていないからこそ、

存分にやれることというのがあるんです。

 

それは、ミタヒツヒト作品のレビューを書くことです。

 

いつだってできるじゃん、と言われればそれもその通り。

それをいつもしないのは、言ってしまえば、ぼくが照れくさくて仕方ないからで。

 

普段ぼくらは創作ユニット「超水道」として、ノベルアプリなどを制作しています。

ぼく、蜂八憲とミタヒツヒトは同じく「シナリオ担当」なのですが、

ひとつの作品を一緒に書くということはありません。

一方がライターを担当する時、もう一方は他の役割をもって後方支援を行うことになります。

 

超水道というチームとしてなんらかの作品を出す以上、

たとえシナリオを担当していない場合においても、

ぼくは何らかのかたちで「作り手」の側にいるわけで。

なかなか「受け手」としてレビューなり感想を書きづらいのです。

 

例えるならば、

授業参観で「素敵な家族」についての作文を

当の肉親を目の前にして読み上げるような気恥ずかしさ、

といったところでしょうか。

 

日頃「これこれこういうところが素敵だよ」と

本人に伝えることはあっても せいぜいが二言三言といった具合で、

まとまった形で伝える機会はなかったように思います。

読者の方々に対しては、なおのこと。

 

つまるところ、この記事は。

とても個人的な『イマジナリ・フレンド』の推薦文であり、

同時に巻末解説のようなものだったりします。

 

ネタバレの類はありませんので、未読の方はご安心ください。

口調がですます調からである調に変わっているのは仕様です。

ざっくり言えば気分的な、ノリの都合です。

ではでは、以下、『イマジナリ・フレンド』レビューです。

 

 

 

 

 


 

◆「たまらないね」とぼくはうめいた

 

『イマジナリ・フレンド』は超水道らしく、実にミタヒツヒトらしい作品である。

読了して、真っ先に浮かんだのはそんな感慨だった。

超水道のイラストレーション担当である山本すずめも、こう評している。

 

 

では、その「らしさ」とは一体なんだろう。

すでに超水道の作品に親しんでくださっている読者の方々であれば、

その「らしさ」を言い表す言葉があるだろうと思う。

 

ぼくにも、ある。

 

ぼくは、ミタヒツヒトの創る物語が好きだ。

 

流れるようなテンポの良さが好きだ。

ハッとさせられるような独特の言い回しが好きだ。

魅力的に動きまわるキャラクターたちが好きだ。

 

そうした要素は、今作『イマジナリ・フレンド』においてもふんだんに盛り込まれている。

でも、ぼくが彼の作品についていっとう推したい点は、もうひとつ別にある。

 

ミタヒツヒトは、さみしさを輝かせる達人なのだ。

 

彼は「さみしさ」を描くのが抜群に上手い。

行き場のない閉塞感を表現するのが本当に巧い。

ともすれば重く湿りがちな感情の数々を、しと降る天気雨のようにさらりと描いてみせる。

 

過去にミタヒツヒトが担当した超水道作品を挙げるならば、

 

『森川空のルール』では高校生カップルの不器用さを。

 

 

 

『ボツネタ通りのキミとボク』では没案になった創作キャラの悲哀を。

 

 

 

『ghostpia』では記憶を失った幽霊の虚無感を。

 

 

 

物語の舞台がリアルであれファンタジーであれ、

色合いは巧みに変えてこそいるけれど、

そこにはえも言われぬ「さみしさ」が通底している。

 

そして今回、彼が執筆した『イマジナリ・フレンド』である。

 

テーマはタイトルにもあるとおり「友達」──ただし「想像上の」。

 

もうたまらない。

 

さみしさ、を描くうえでこれほど魅力的な素材があるだろうか。

彼自身がこの題材を選んだことに、ぼくは密かに感謝したし期待もした。

「ミタヒツヒトが真正面から『友情』を描いてくれるぞ!」──と。

そして実際、お話の出来は想像以上のものだったのだ。

 

『イマジナリ・フレンド』の裏表紙あらすじには、以下のようにある。

 

他人とのコミュニケーションが絶望的に苦手な大学生の山持浩之は、イマジナリ・フレンドのノンノンと一緒に、リアルではひとりぼっちだけれど脳内では幸せな毎日を送っていた──このままで良いのかと、小さな不安を感じながら。 そんな山持を見かねたノンノンは、似たような人々が集まるカンパニーへと誘うのだが……。

 

物語の主人公「山持浩之」こと「やまじ」は20歳の大学生男子である。

どこにでもいる普通の……と続けたいところだが、 そう書くのはいささかためらわれる。

 

"この人物を「普通」と形容するのは、むしろ「褒めすぎ」ではなかろうか?"

 

自然と、そんなことを感じてしまうくらいには。

 

あらすじで「絶望的」とすら評されるコミュニケーション能力。

ひとたびパニックに陥ると「キャストオフ」もとい脱衣して上裸になるという悪癖。

高校のマラソン大会でキャストオフした挙句に出禁となった逸話すら持つ。

 

そんな彼は、これまでの人生において現実(リアル)の友人を作れた試しがない。

けれど「想像上の友達」はいる。

最初にして唯一の友人、それが「ノンノン」という名の少女型イマジナリフレンドだ。

 

作中でも言及されているが、 イマジナリフレンドという存在は、子供にとって特別珍しいものではない。

だが、あくまでも「子供にとって」の話だ。

大体において、小学校に入る頃にはすでに視えなくなっているという。

成長するにつれて、現実の友達、あるいは熱中する何かを見つけることで、イマジナリフレンドはその役目を終えるからだ。

 

いうなれば、イマジナリフレンドは「未熟さ」の証でもある。

物語の舞台は東京の一角であってネバーランドではないし、 もちろん主人公のやまじもピーターパンではない。

ノンノンを失いたくないとは思うものの、かといって開き直ることもできずにいる。

二〇歳に達してなおノンノンが視える状況について、やまじはこう独白する。

 

 どう見てもおれは、まるっきりの異常者だった。

 誰かに相談したことはない。

 この状態をうまく説明できる自信がないし、ノンノンとの生活を、おれは楽しんでしまっている。

 

「でも、本当にそれでいいんだろうか」と彼は自問する。

自分自身、ひいては他ならぬ自分が生み出した「ともだち」への不信感。

序盤でのノンノンとの会話においては、それが顕著に表れてもいる。

 

「……いつまでも、自分の妄想にすがるのは、情けないな、と思って」

「あたしはあんたの想像でできてるけど、妄想なんかじゃないんだってば」

(中略)

「証拠は?」

 こう言ってやるだけで、ノンノンは少しだけ悲しそうな顔をしてから、訴えを取り下げてくれる。

(中略)

 ノンノンという幻想さえもがおれに愛想を尽かすまで、続けていくしかないのだ。

 

けれど、ひとつの出会いを契機として、やまじの日常は変わることになる。

「空想ともだちカンパニー」。

自分と同じような人間が集う場所。

その報せは、彼のことを見るに見かねたノンノンによってもたらされたものだった。

 

ノンノンは言う。「うまくいけば、あんたにも、やっと仲間が見つかると思う」

 

果たして、そこには「仲間」がいた。

やまじと同じくイマジナリフレンドが視える人間、 そしてノンノンのようなイマジナリフレンド。

「空想のともだち」にまつわる諸々の相談を請け負うというその会社で、 やまじはひと夏のアルバイトを体験する。

 

イマジナリフレンドと保有者の関係性は様々だ。

これが「現実のともだち」ならば、話の焦点は「付き合い方」に集約されるに違いない。

けれども「空想のともだち」は、その特性ゆえに少しばかり事情が違ってくる。

 

彼らの場合、「付き合い方」よりもむしろ「別れ方」に重きが置かれる。

 

作中において、イマジナリフレンドとの別れは「卒業」と呼ばれる。

本来ならば、とっくのとうに視えなくなっているはずの存在。

にも関わらず、一定の年齢を過ぎても視えるということは、 言い換えるならば「精神的な留年」を意味する。

 

だから、イマジナリフレンドとの別れは保有者の「成長」の証でもある。

そう、祝うべきことなのだ。

「ご卒業おめでとうございます」という具合に。

 

ただし、別れたならば、もう会うことはできない。

卒業したが最後、イマジナリフレンドは姿を消してしまうのだ。

そして、やがては保有者の記憶から存在そのものが消えてしまう。

それが作中世界におけるイマジナリフレンドのルールだ。

 

物語のなかで、読者はやまじの視点を通してそれらを目撃することになる。

空想のともだちにまつわる「別れ」は、

その存在が非現実的なものであるからこそ、

よりいっそう痛切な現実感をもって読み手の胸にぐいぐいと迫る。

 

ああ、もうね、たまらんですよ。

友情ものが大好きなぼくとしては、

読書中に思わず「うぁぁ」と独り言をつぶやき、

身をよじってしまうくらいにグッとくるものがある。

 

重ねてたまらんことに、

やまじは「空想ともだちカンパニー」でのアルバイトを通して 不器用ながらも着実に「成長」していく。

とても魅力的な成長譚──だが、手放しには喜べない。

彼の精神的成長は、同時に、空想のともだち「ノンノン」との離別のカウントダウンでもあるからだ。

 

やがて訪れる「その時」に、彼らはいかなる判断を下したのか。

そして、訪れた「その後」がいかなるものか。

その結末を見届けた時、

きっと読み手の胸には「さみしさ」を補って余りある「いとおしさ」で満たされているはずだ。

 


 

◆「音楽で言うとね、」と彼らは言った

 

とある表現者の魅力を言い表そうと、他の表現者を引き合いに出す。

こうした手法はおなじみのようでいて、

実のところはなかなかデリケートだったりする。

 

「かの◯◯氏の再来」

「××さんを彷彿とさせる」

「すっごーい△△さんっぽいね!」

 

エトセトラ、エトセトラ……。

 

レビューに際して、そうした形容を一種の禁じ手としている

書き手・読み手は一定数いらっしゃるだろう。

だがあえて、ここではその「禁じ手」を使わせてもらう。

 

ぼくがミタヒツヒトに感じるものを語ろうとすれば、

どうしても必要な途中式だと思うからだ。

 

──「ミタヒツヒト作品はさ、音楽で言うとね……」

そんな評を聞いたのは、かれこれ一年は前だったか。

御年40を過ぎた知人は、ミタヒツヒトの作品をこんなふうに形容した。

「面白かったよ。とても心に来たんだよ。どう言い表したものかな、ええと……」

しばし宙を仰いでから、彼は「ああ」と得心したように言ったのだ。

 

「ミタヒツヒト作品はさ、音楽で言うと尾崎豊なんだよ」

 

自分自身、音楽に詳しいわけではないし、世代でいえば下の部類に入る。

けれども、「ああ」と納得している自分がいた。

「分かりますよ、それ」と頷かざるを得なかった。

 

ほんの数カ月前、同じことを、自分と同年代の友人が言った。

「ミタさんの作品って、音楽で例えるなら尾崎豊だと思うんですよね」

ああ、とぼくは頷いていた。前回よりも、より強く。「分かりますよ、それ!」

僕と知人だけではない、という安堵であり、確信だった。

 

尾崎豊、と聞いてピンとくる10代の方は少ないとは思う。

ぼくと同じ20代であっても、そうかもしれない。

それでも、「ぬーすんだバイクーで走りー出すー」というフレーズを

一度は耳にしたことがある人も多いのではないだろうか。

『15の夜』という曲、その歌詞の一節だ。

 

尾崎が遺した作品、特に10代の頃に作曲されたものでは、

孤独感や閉塞感、そうした後ろ向きな感情の奔流が

これでもかとばかりに情動豊かに描かれている。

その生々しい空気感が、ミタヒツヒトの作品にも感じられるのだ。

ただ、ミタヒツヒトの場合は、ベクトルが真逆だと思っている。

 

先ほどの歌詞になぞらえるならば、こうなる。

尾崎豊の作風が「盗んだバイクで走り出す」側ならば、

ミタヒツヒトのそれは「バイクを盗まれて走り出す」側だ。

 

「なんでこんな目に」と呪詛を吐いて、

「そういえば鍵かけてなかったわ」と後悔して、

「クソッタレが!」と絶叫して家路を疾走するような。

 

本作の主人公であるやまじは、まさにそういうキャラクターだ。

 

 この世界に、誰一人として味方がいない。

 寂しい。誰か、助けて。

 でも、悪いのは自分。

 何度となく味わってきた感覚。何度味わっても、慣れることはない。

 死んでしまいたい、とは、そうだ。こういう気分のことだった。

 

あらすじで「絶望的」とすら評されるコミュニケーション能力。

ひとたびパニックに陥ると「キャストオフ」もとい脱衣して上裸になるという悪癖。

高校のマラソン大会でキャストオフした挙句に出禁となった逸話すら持つ。

 

やまじは走る。走らずにはいられない。

ある時は、どうしようもない現実、そして自己嫌悪から逃避するために。

またある時は、誰かの力になるために、そして自分自身を救うために。

 

「おれは、諦めたくない!」

 Tシャツの裾に手をかけた。

 ああ、世界はこんなにも美しい。

「やまじくん! 何をするつもりだ?」

「やまじ! キャストオフ!」

 

この物語において、やまじは呆れるほどに疾走する。(そして脱ぐ)

 

そんな話が面白いのかというと、実に面白い。

それを可能にしているのは、ひとえに書き手の眼差しの真摯さによるものだろう。

こと「後ろ向き」な感情を描き出すことについて、

ミタヒツヒトの筆致は妥協を許さない。

 

だからこそ『イマジナリ・フレンド』は、

とびっきりカッコわるくて、

めちゃくちゃカッコいい友情小説に仕上がっている。

 

「さみしさ」を、しと降る天気雨のようにさらりと描いみてみせるミタヒツヒトだけれど、本作においては時として、土砂降りのごとくびしばし胸の奥を打ってくる。

 

文章の雨にさらされることによって、ようやく気づくこともある。

 

致命傷になるほどではない、数々の傷。

いや、なかには、致命傷になりかけたものもあるかもしれない。

誰の胸にも、大なり小なり、浅いものから深いものまで様々あるだろう。

 

ミタヒツヒトの作品に触れるたび、そうした古傷の数々に、否応なく気付かされる。

 

ああ、自分はこんなに傷を負っていたのかと。

 

例えるならばそう、かさぶたを見つけた時の快感に似ている。

おそるおそる剥がしつつ、そこに薄皮が張っているのを見て、ほっと安堵するような。

 

そうして雨が過ぎたあとには、傷に対する一抹のさみしさと、溢れんばかりのいとおしさが胸に宿っている。

 

ぼくにとってのミタヒツヒト作品、

特に『イマジナリ・フレンド』は、そういう物語なのだ。

 

ぼくのような20代、ひいてはそれ以降の年代には

「ぜひ読んでみて!」と薦めたいし、

10代の人には「なおさら読んでみて!!」と一推ししたい。

 

渦中にある人ならば、よりダイレクトに感じられるだろう。

いっそ痛いかもしれない。

けれど、安心してほしい。大丈夫だよ、と伝えたい。

 

彼の創るおはなしは、いくぶん傷に沁みるけれど──

同時に、確かな潤いをもたらしてもくれるのだから。

 

この文章を読んで、彼の物語に興味を持ってくれた人がいるならば。

「ミタヒツヒト作品っていいよね……」「いい……」

そんな会話が、どこかで、ひとつでも生まれたならば。

 

ぼくはとっても、ほろりときてしまうほどにうれしい。

 

 


 

 *この記事を書いたひと*

 

 蜂八憲(はちや・けん)

 

 超水道のシナリオ担当。体重が危うい。

 代表作は佐倉ユウナの上京

 商業作品に『こうして魔女は生きることにした。』(NOVELiDOL)

 


 

author:蜂八憲, category:雑記っぽい何か, 20:00
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